生い立ち

生まれつきの虚弱児、心臓が弱く、家族のサポート無しに生きることは難しいことであっ た。かばんは 兄が持ち、店のお兄さんに自転車で送ってもらった。暴れないようにと 着物を着せられ、ガーゼに真綿を首に巻かれた。傷ついた。その頃登校で着物を着てゆく児童はいなかった。その頃から反骨の精神は養われたようである。

 

欠席が続けば、宿題をもって友がたずねてくれていた。しかし、不愉快なことを言えば来てくれない。必然的にお人は大切にという気持ちが芽生えた。これは後転勤族となり移り住ん だ時、大いに役に立った。

 

女学生になり、30 分の徒歩通学をしたがこれで元気になったように思う。

 

 

英喜さんとの出会い

英喜さんとの始めての出会い。 

そのころ夢見る夢子の19 才、お見合いなどフンと思っていた。友の恋路がうらやましく 現れない王子様に恋していた。始めてのお見合いをすっぽかし、家に帰れず悩んだ。

 

20 才になり凝りもしない親から「今日は見合い」と告げられた。反抗期真っ盛り。家を飛 び出したが行く当てもない。相談すべき友も、親戚もいない。歩きつかれて家に帰れば、 玄関に汚い軍靴。怒って覗いたフスマのむこう。驚いた。見たこともない好青年、方針は一変、しとやかさの付け焼刃で粛々とお茶を運び、言葉使いも気をつけた。落ち着いてみれば遠い親戚のお兄さん。子供の頃よりなんとなく気にはなる存在だった。

結婚が決まった時、「重いものを持ってくださいますか。」それだけをお願いした。以来60猶余年、英喜さんは最後までよろよろしながら重いものは自分が持つと決めている。長い道のり大病の絶えないみつこ、助けてくれた英喜さん。感謝である。

 

鉱山技師の英喜さんには二年おきの転勤があった。数えてみれば引っ越しは23 回。 夫は仕事の引継ぎ、送別会、歓迎会と忙しい。二人の子供に恵まれいつの間にかどこに おかれてもなじめる技術を身につけていた。初めての土地、知り合いもない生活の中で、 唯一の楽しみはお茶のお稽古、北は栃木までの移り住みの中で多くの先生に出会い、人に出会い、すばらしい茶の世界をのぞき見られたことは法外の幸であった。 

 

終生の学びとなった茶道一つの扉を開ければ次の扉が、己の無学、足りなさを知るたびで ある。素晴らしいお人の隣に座れるのもこの道、美への探求に謄を噛み、一輪の花のつぼみに 万斤の喜びを見出し、一人端座してあらぶる心を静められたのもこの道であった。鰯々たる愛の世界、美への生涯を垣間見せてもらった。 

 

助かること不可の病を克服し、文字とおりの七転び八起きの人生であった。